デクの祈りうた

キリスト教徒の祈りを、詩とエッセイにこめて

(聖書から) 名を呼ぶ②

恐れるな。わたしがあなたを贖(あがな)ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。……わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

旧約聖書イザヤ書」四十三章)

 

 

学校で出席簿順に名前を呼ばれるときドキドキした

世界にただ一人の存在だよと 大事にされた気がした

 

大学病院で呼ばれるのは番号 

ドキドキはするが 大事にされているなという気はしない

 

 

 今日、初めてかかった科で名前を呼ばれた。だが、隣の科では番号で呼んでいる。この大学病院は、どうやら医師の考えで名前にしたり番号にしたりしているようだ。不統一さが待合室でのドキドキをさらに増すではないか、などと思う。

 他の総合病院でも、多くの場合番号で呼ばれる。だから馴れてもいるのだが、わたしとしては名前で呼ばれるほうが安心する。番号だと、通院日ごとに異なる。患者のぼうっとした頭では、呼ばれても聞きもらしそうで落ち着かない。気の小さいわたしは番号が聞こえるたびに、違うなと思いながらも、自分の番号が印刷された紙を確かめないではいられないのである。

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 病気を診るのでなく病人を視るのが医師である、というような言葉をきいたことがある。患者なる者としては、そこまで自分の心を開いて診察してもらいたいとは思わないのだが、何十分も、ときには数時間も待たされたあと、パソコンに向かったまま顔も上げずに、「今日はどうしました?」とぶっきらぼうに訊いてくる医師には、開いた口がふさがらない。心がしおれて、細かく症状を伝える気になれない。そのような医師にとっては、わたしは、何番、何十番という番号にしか映らぬ患者にちがいない、と思ってしまうのだ。
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 そんなわたしにでも、数少ないけれど尊敬している医師はいる。―カルテを見て前回の様子をすぐに思い出し、「その後どうですか? 薬、効いていますか?」と、体を傾けてたずねてくれる医師。診察室のドアを開けると、先に「こんにちは!」と声をかけてくれる医師。初めての診察のとき、椅子から立ち上がって「〇〇です。よろしくお願いします」と挨拶してくれた医師もいた。かつて親族が、「帯状疱疹(たいじょうほうしん)」という、強い痛みを伴う病気にかかったことがあったが、その痛みを和らげる治療法を習得するため、地方から東京へ出張した医師もいた。

 どの医師も、患者を番号でなく名前で呼んでくれるひとだ、という信頼感が湧いた。カルテ一枚の存在でなく、一人ひとり異なるニンゲンなのだ、しかも、苦しい、痛い、不安だ、心細いと、ドキドキしている患者さんなのだ―そういう思いで対応してくれているのだと。

 青インクで患者さんの名前を大学ノートに書き写し、赤インクのペンでその上をなぞりながら祈ってくれる医師もいた。「あなたは高価で尊い」患者さんですよ、という思いがズンと伝わってきた。知識と技術のうえにココロをもった「仁術」としての医療だと、深く感じ入ったのだった。

 

 

たんぽぽの 何とかなるさ 飛んでれば

 

 

 

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