デクの祈りうた

キリスト教徒の祈りを、詩とエッセイにこめて

(病と祈りと) 伴走②

〈苦しみながら走るひとの隣りにいる。それが走る人の助けになる。―そのように願い、期待する。たとえ隙間は容易に埋められるものではないとわかっていても。

 その伴走者にも孤独があるでしょう。つなぎあうリボンは、孤独と孤独とを結ぶ祈りのリボンとなれたら有難い、と思うのです。〉

 

 

 

うろたえぬ夫(つま)になりたい

妻が病み

 

 

うつむかぬ夫になりたい

妻が病み

 

 

目がわらう夫になりたい

妻が病み

 

 

はらで聴く夫になりたい

妻が病み

 

 

声ひびく夫になりたい

妻が病み

 

 

おしつけぬ夫になりたい

妻が病み

 

 

たおやかな夫になりたい

妻が病み

 

 

神あおぐ夫になりたい

妻が病み

 

 

祈りする

夫になりたい 妻が病み

 

 

 

 2

 

はらで聴く夫(つま)となるべし 妻病めば

 

 胸の奥にひそかに溜めこんでいく不安がある。その塊は、知らずのうちにストレス玉と化していくようだ。
 医療に関する情報は、ネット検索でも、本でも、研究論文でも、がん研などの資料でも、「ああそうか、納得した。少し安心材料が増えた」などのレベルには達しない。理解力の乏しい素人はかなしいものだと、つくづく思う。
 大学病院の担当医は無口で、自分からコミュニケーションを図ってくれる人ではない。質問しても、ていねいな説明はあんまり期待できない。
 だが―。不安は尽きないからこそ、それに浸りたくないではないか。むしろ、ドントコイという腹構えでいたいではないか。「神さまがぜんぶ見ておられる、耳を傾けてきいておられる」と、安心の手のひらにのりたい思いで。
 病んでいる本人の不安や心細さとは比べ物にならぬ。

 だから、しっかり食べる。よく噛んで食べる。三度三度バリバリ喰って、腹を肥やし、肝っ玉を大きくしよう、と思う。医師の言葉も看護師の言葉も、家族の言葉も、何より妻の言葉を、がっちり受け止め、「きっと良くなる!」という強い希望にすべて結びつけたいのだ。

 

 

 

押しつけぬ夫(つま)となるべし 病む妻に

 

 水を注文したら、お茶を持ってきた。「冬の今、水は体を冷やしますので」と笑いながら。「でも」と私は言った。「水がほしい、冷たい水が欲しいんだ」。
 ウェイターが応えた、情けなさそうに。「せっかく温かいお茶を用意したのです。お客さまに良かれと、そう思ったのです、わたしは」。
 ―そこで目が覚めた。告知を受けたばかりのひとに、あれをするな、これをせよと指図した。大丈夫だいじょうぶと励ました。心がひっくり返っているひとに、良かれと思って。良かれと思って押し付けた。ほんとうは、動揺しているのはこの私ではないか。受け入れられぬ心に振り回されているのはこの私なのではないか。

 

 

 

声ひびく夫(つま)であるべし 病む妻に

 

 「お父さんは声の調子ですぐ分かる」と、妻に言われる。「顔にもすぐに出るし。―暗い顔、沈んだ声、それがいちばんストレスになる」と言われてしまう。
 作り笑顔でも笑顔である。のどにつかえる声でも、声である。ならば、できるだけ朗らかに。病識が乏しいなりに、いや乏しいからこそノーテンキになってよいではないか。
 妻が弱気になったとき、プラスの言葉がなかなかうまく言えない。自分が先に弱気になってしまう情けなさがある。だが「哀しいから泣くのではない。泣くから哀しくなるのだ。おかしいから笑うのではない、笑っているうちにおかしくなるのだ」。―私なりに明るい声は出せる、と思う。

 

 

がんだって 病気の一つ 顔あげる

 

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